築50年を超えた今の住まいは父が建てたマイホームである。「ザ・昭和」な物件なのだが、屋根や外壁、内装など、都度都度手入れをして今日まで維持できている。父は転勤族だったので、当時この家に住むまでに一家で4回引越しをした。その間、私自身は小学校を2回転校し、3校目でようやくこの地に落ち着いた。
姉は中学校を3年間で3校も変わっていて、最後は高校受験の目前だった。後から思えば教科書も授業の進み具合も違う中で、進学校の公立高校に合格したのはすごいと尊敬している。
ホッとしたのは私たち姉妹だけではなかった。母は物静かな控えめな人だったが、新築の家での新しい生活に期待感で表情はすこぶる明るかった。私はあまり記憶がないが、母の話によると社宅での娯楽といえば、互いの家に集まってマージャンをすることだったらしい。狭い社宅の家でワイワイやられては、さぞ母も大変だったことだろう。母は手仕事にたけていて、自分の服や子供の服を仕立てるのはもちろんのこと、それ以外では文化刺繡の作品で家中に彩りを添えていた。今でも数点、色褪せることなく飾っている。
家主となった父といえば、それまでの社宅生活時代には見られなかった行動に出る。特に趣味があるわけでもなかったそんな父が、休みごとに土や植木やゴロンとした大きな石を家の敷地に運び込み、自らの手でコツコツと数年かけて様々な植木で庭を作り上げていった。
父が亡くなった後は母が一人で手入れをしていた。晩年は庭木の職人さんに手入れをお願いして、大きくなりすぎた柊、柿の木、木蓮、そして手入れの難しい松の木などを伐採している。すっかり視界は開けて日当たりもよくなり、落ち葉掃きの作業もなくなった。
思い入れのある木々が減ったことに寂しさは感じるが、今でも季節を知らせてくれる自然の癒しの空間がそこにある。庭に水を撒く父や母の姿を今でも時々思い出す。
子供の頃の私は父が苦手だった。お酒が好きで陽気に笑っているかと思えば、何か癇に障ることがあるとギッと睨んで怒ったりする人で、家族のことをどう思っているのかよく分らなかった。またテレビのチャンネルは相手が子供だろうが絶対譲らず、アニメの時間なのに野球中継。今でこそWBCやメジャーリーグで活躍する選手のインスタをフォローをしているが、当時は野球なんぞに興味も関心もあるはずもなく、ほとほとつまらなかった。
姉も同様に感じたに違いなく、思ったことをはっきり口にしていろんな要望を言うのだが、ことごとく却下される。思春期真っ盛りの姉に対して父は厳しかった。父と姉の口論が始まったら自室に籠もって成り行きを見守るしかない。
そんな父は引っ込み思案でおとなしい私に対しては、母を介して伝言ゲームのように伝えていた。「お父さんがね、こう言ってるよ」と伝える母だったが、母の想いも同様の手口で伝えられていたように思う。昭和の夫婦の姿がそこにあった。
母の介護を機に旦那や子供たちと離れて実家での同居を始めたが、当時は庭木の手入れはおろか草むしりさえろくに出来ない状況だった。1年間何もしないで庭をほったらかしにしたら、ご近所から「お宅の雑草から胞子が出てうちの庭に草が生えて困る」と苦情が寄せられる始末。
実の母の介護の難しさと刻々と変化していく母の状態にに戸惑いながら葛藤する中で、泣きながら雑草をむしり続けたことを覚えている。いっそのこと庭木を全部引き抜いて、更地にしてはどうかと母に言ってみたことがある。母は「自分がいなくなったらそうしてもいいかもね、もうすぐピンクの花が咲く頃なのよ。」と言った。
そうこうしているとき、旦那が急逝して途方に暮れた。そして多額の事業負債があることが分かり、やむなく相続放棄をして、旦那と子供たちと築いた暮らしの何もかも失った。それからは実家がこれからを生きていく私の居場所となった。旦那の後を追うように半年後に母が逝く。立て続けに何か失うとき、人の心は固まってしまうのだと思う。運命を受け入れるには時間が必要だった。
昨年母の7回忌を迎えて、この7年間何をどうやって生きてきたのか、何を心のよりどころにしていたのか思い出せなかった。還暦を子どもたちに祝ってもらった後、改めて振り返ってみた。死んだように生きてもしょうがない。生きているんだからしっかり生きようと。出来るだけ悔いを残さないように。
一人暮らしは寂しいが、慣れてくれば気楽でいい。老後の経済的な不安もあるが、今のところパートで働けている。雨風をしのげて安心して住める場所で最低限の暮らしが出来ている。これらのことがありがたい。この家を残してくれた父と母に感謝している。
庭木の手入れも心を入れ替え続けている。最近ではYouTubeで剪定の仕方を学んでは季節ごとに行っている。今年の庭木の手入れは2月中旬の夏ミカンの収穫に始まり、3月上旬に夏ミカン、千両、茶の剪定、そして4月上旬は南天の剪定と続く。
南天は初夏に白い小さな花が咲き、冬に赤い実をつける。赤い実は厄除けの力があると信じられ、また難を転じて福をもたらす「難転」という意味もあり、縁起物として玄関先に植えられたり飾られたりすることが多い。
我が家では玄関とは真逆の敷地の一角の80センチ四方ほどの角に植えられている。しかもそのすぐ横に倉庫が置かれており、丈が2mほど伸びて茂った南天の窮屈さは計り知れない。おそらく倉庫が後から据えられたと思うが、父はどうしてここに植えたのだろう。
剪定の仕方を学ぶついでにいろいろ調べてみると縁起木として鬼門または裏鬼門に植えるとあった。南天の場所はまさに鬼門の方角。父は意思をもって、我が家の鬼門封じのために南天をこの場所に植えたに違いない。そう思うと南天には家を、家族を、守りたい、という願いが込められているようであり、この歳になってはじめて父の深い愛情を感じることとなった。じんわりと熱いものが込み上げてきた。
お父さん、あなたの願いは今も効力を発揮しています。無事に過ごせています。ありがとう。大切にその想いを継承して南天の剪定に挑みます。